ろくでなしブログ

世の中が悪いのか、世の中を見る自分の目が悪いのか。

ろくでなし

この歳にもなって大した入力もなく知性の足りていない自分を恥じるということ、だから出力することを恐れるということ、己のやりたいことができないのはとどのつまり、己の今までの人生の「ツケ」にしか過ぎないのだということ。

己というものの怠惰を悔いて尚、何をも為さず何をも成せぬ、しかしそれを自覚するだけ無思考にもなれないという類の、自分に連なる人間はそれこそ星の数ほど居るだろうが、結局のところ己というものが実在する以上、「何かを為した」結果が今の自分であるということ。なのであれば、己とは結局何を為した末にこのような人間に成り果てたのか。「何をも為さなかった末」と嘆くのは簡単だが単なる思考停止。何が足りなかったのかと自分に問えば、それは結局自分には、「熱の通った何か」が無かったのだろうと思う。自分のことを自分で誇れる、その感情には相当な熱量が必要だろう。逆に言えば、熱量のあることをこそ己の誇りと思うには、そう苦労はしないであろうことは予想できる。「自己肯定」一点にこれだけしんどい苦労を感じる己という人間には、それに通じる「熱をもった経験」というものが恐らくは、決定的に存在しない。それをきっと怠惰と嘆くのだ。多分。だから己には哲学がない。己を己と規定するだけの確固たるものが足りない。厨二病ちょうど二周目、今更ながらの自己同一性危機とやらといった、物々しい言い方をする例のアレである。それを嘆けど、じゃあこれからどうしていくかと代替性のない話しか述べられない辺り、理屈ぶった言葉であれど結局は感情の域を飛び越えない。結局は嘆きで終わる自己完結。

もうまた明日が来てしまうことに、そして何の意図もなく時間を消費するであろう明日の自分に結局は、恐怖を感じようと諦めることしかしない。